多くを語ることはない。
ただ、誰よりも熱いハートを内に秘め、力強いディフェンスでライバルを跳ね返してきた。
背番号30番・山﨑浩介。
決して順風満帆なキャリアではなかった。
それでも自分とサッカーに真摯に向き合い、誠実に、まっすぐに歩み続ける──。
横浜FCの最終ラインを支える、“守備職人”の生き様とは。
“積み上げて、強くなる”
山﨑浩介 DF 30

取材・文=北健一郎、青木ひかる
「昔から、“真面目だね”って言われて育ってきたんですけど……。両親からこうやらなきゃダメだみたいに言われた記憶は、あんまりないですね。実はやんちゃだったとかもないし、ずっとこんな感じです(笑)」
柔和な笑顔を見せながら、山﨑は自身の幼少期を振り返る。
今と変わらない心優しく穏やかな性格だけを考えれば、誰かとなにかを競い合うことを好むタイプではなかっただろう。
ただ、生まれ育った埼玉県さいたま市は、日本屈指の“サッカーのまち”。小学校に上がる年が、FIFA日韓ワールドカップが開催された2002年だったこともあり、周囲の友人たちが次々とボールを追いかけ始めるなかで、山﨑も自然とその輪に加わっていった。
「最初は、よく一緒に遊んでいた2つ上のお姉ちゃんの友達に混ざるくらいだったんですけど、小学2年生になって、地元の少年団に入りました。上を目指してというよりかは、ただただ楽しくてやっていた感じでした」
当時はサイドハーフやボランチを主戦場に、任されたポジションをそつなくこなす、オールマイティーな選手だった。
武器の一つである右足のキックも、「自分がいたチームだったら、一番くらいだったのかな」と自己評価は、あくまで控えめ。その謙虚さこそが“山﨑らしさ”の真骨頂でもあるが、小学5年生でトレセンのメンバーに選ばれたことが、大きな転機となる。
「同じ時期に大宮アルディージャのジュニアチームが新設することが決まって、大宮のトレセンのメンバーの中から一期生を決めることになって、選んでもらうことができました。運が良かったというか……。こういう巡り合わせってあるんだなと」
運も味方につけた山﨑は、自身のサッカーキャリアを切り開く一歩を踏み出した。


図らずもJクラブのアカデミーの一員となった山﨑だったが、ジュニアユース加入後、小学生までの間で感じてこなかった、周りとの実力差に直面した。
「身体能力の部分でも自分より足の速い選手がどんどん増えて、勝負にならなくなってしまって。途中からサイドバックになったんですけど……。試合に出られるイメージは正直全然沸かなかったです」
その中で、中学2年生になってからジュニアユースの新監督に就任した中村順氏との出会いは、自身の基礎技術を大幅に高める上で、必要不可欠なものだったと語る。
「もともとグラウンドや練習の環境はすごく充実していたんですけど、順さんが来てからは、“Jユース”らしい、よりテクニカルなサッカーを志向するようになって、どんどんユースチームが強くなっていきました。“止める・蹴る”のこだわりをはじめ、ワンプレーの質は、どんどん上がっていって、サッカーがうまくなった感覚はすごくありました」
それからは、監督に教えてもらったことを、毎日、丁寧にこなしていく日々が続いた。すると、中学1年生の時にはまったく出られなかった公式戦で、少しずつチャンスが回ってくるようになった。
ユース昇格後も、変わらず焦らず練習に取り組むことで、徐々に序列を上げ、出場時間を増やすことができたという。
「思い返しても、なにか特別なことをしたわけではなかったかなと思います。ただ、コーチングスタッフや監督に、『一番伸びた選手だった』と言ってもらえたのは、本当にうれしかったですね」


大宮のトップチーム昇格を逃した山﨑は、関東大学サッカーの強豪である明治大学への進学を決断した。
ここまでのインタビューでも、質問に対してわからないものは「わからない」、覚えていないものは「覚えてないです」と、答えるどこまでも正直な山﨑だが、数多くのJリーガーを輩出してきた名門校で過ごした4年間について、はっきりとした口調でこう言い切る。
「選手として一番成長できたのは、明治で過ごした時間があったおかげ。大袈裟ではなく、違う大学に行っていたら、今の自分はいない。それは間違いないです」
一部屋あたり10人近くが寝泊まりする寮生活を過ごしながら、ユース時代とは比にならない練習量をこなし、激しいチーム内の競争に打ち勝って初めて立つことができる、リーグ戦の舞台。
さらにそこで結果を出さなければ、問答無用で翌週にメンバーから外される緊張感は、今でも忘れられないと苦笑いを浮かべる。
「練習や試合だけじゃなく、私生活や仲間を応援するスタンドでの振る舞いも、全部スタッフが見た上でメンバーを選んでいるので、一瞬の気の緩みも許されない。そういう“強い組織”だったからこそ、あれだけプロ選手を毎年送り出せていたんだな、と思います」
チーム内には室屋成(FC東京)や河面旺成(名古屋グランパス)、対戦相手には三笘薫や上田綺世と、のちに日本代表にまで上り詰める選手がそろうハイレベルな環境で、1、2年生のうちはメンバー外が続いた。
それでも必死に喰らいつき、3年生の夏には総理大臣杯でメンバー入りを果たすと、少しずつチームメイトや監督の信頼をつかんでいった。
「試合は出られるようになりましたけど、この時点では、“サッカーは大学生まで”という気持ちでした。だから、悔いのないようにやり切ろうという気持ちでした」
しかし卒業まで半年を切った4年生の秋、当時J2の愛媛FCから、山﨑の元にオファーが届いた。
「その前にも練習参加はさせてもらっていたんですけど、まさかこのタイミングで声をかけてくれるとは思いませんでした。自分が活躍できる保証もない中でサッカーを続けるか、一般企業に務めるか。内定ももらっていたタイミングでしたし、ものすごく悩みましたね」
Jリーグか一般企業か。1カ月間、悩みに悩んで選んだのは、サッカー選手としてチャレンジを続ける道だった。
「結局どちらにチャレンジしてみたいかと考えた時に、やっぱり心が動いたのはサッカーでした。いろんな人にも相談したし、性格的には、“安定”を求めそうなのにと自分でも思いますけど、でも後悔をしないのはサッカーかなと思って、決めました」
4年間の感謝を胸に、山﨑はJリーグの舞台へと足を踏み入れた。

2018シーズンに愛媛FCでJリーグデビューを果たし、気づけばプロ8年目。
4つのクラブを渡り歩き、着々とステップアップを重ねながら、山﨑はJ1の舞台へと上り詰めてきた。
振り返れば、いずれのチームでも加入初年度から徐々に出場時間を伸ばし、2年目には先発メンバーに定着。その順応度の高さは、今シーズン横浜FCに加入してからも評価されてきた。
ただ一方で、チーム全体をまとめる役回りも求められる年齢にもなり、「個人」のパフォーマンス維持と「リーダーシップ」とのバランスについては、ここ数年試行錯誤が続く。
「去年、サガン鳥栖でもJ1残留争いを経験する中で、チームのことを考えすぎて、個人としてのプレーがうまくいかなかった感覚がありました。なので、今シーズンは、まずは個人のことに集中してピッチで力を示めそうと、横浜FCに加入しました。だけど、結局うまくいかなかった。監督交代や戦術変更もある中で、どうしたらよかったのかというのは、正直、今はわからないというのが本音です」
それでも俯いているわけにはいかないと、山﨑は自らを奮い立たせる。
「でも、どのチームにいてもブレたくないのは、自分が求めてられていることはなにか、それに対して何が足りないか、何が秀でているかを考えるのを辞めずに、手を抜かずにコツコツ積み重ねていくこと。それはどの仕事をしていても、サッカー選手を辞めた後も、“人として”大事にしていきたいことです。なので、シーズンが終わってから、もう一度整理し直して、必ず次に生かしていきたいです」
地道に、ひたむきに、山﨑らしく。
これからも、サッカーと向き合い続ける姿勢は変わらない。




山﨑浩介/DF 埼玉県さいたま市出身。1995年12月30日生まれ。182cm、80kg。
8歳で地元の大宮KSユナイテッド02サッカースポーツ少年団に入団。小学6年生で大宮アルディージャジュニアに加入し、大宮アルディージャJrユース、大宮アルディージャユースとアカデミーの階段を着実に駆け上がった。その後、関東大学サッカーの強豪・明治大学へ進学した。2018シーズンに愛媛FCでプロキャリアをスタートすると、3シーズンにわたり主力として最終ラインを支えた。2021シーズンよりモンテディオ山形へ完全移籍し、加入2年目の2022シーズンにはキャリア最多となるリーグ戦41試合に出場。翌2023シーズンにはサガン鳥栖へ加入し、自身初のJ1挑戦を果たした。2025シーズン、横浜FCに加入。的確なポジショニングと対人の強さを武器に攻撃の芽を摘む冷静沈着な“守備職人”。